こんにちはヤニックです
今回はエリック・エイブラハムソン、ディヴィッド・H・フリードマンの「だらしない人ほどうまくいく」読んだので
自分の勉強用にまとめとアウトプット、感想や要点を書いて行こうと思います。
僕もだらしない方なので(本書に掲載されている「だらしない度」ではだらしな度75%の「だらしないの達人」という大変名誉な称号を得た)
この記事は「だらしない」人にとっては共感を得やすく「きっちり」しすぎる人には痛烈な内容になる可能性があるので
心の弱いきっちり系の方は閲覧ご注意ください。
「だらしない」寄りの書き方になっておりますがご容赦ください
目次
きっちりにはコストがかかる
著者の「きっちり」にはコストがかかる、という考え方は僕にとってとても新鮮な考え方でした。
本の中でも書かれていますが
任意のトランプのカードを見つけるのに、順番に並べられたトランプと、ぐちゃぐちゃなトランプを使うなら順番に並べられたトランプを使う方が早く見つけられるけど
カードをもとの状態に戻すときに「きっちり」順番に並べる方は時間がかかる
という考え方が斬新でした
実際、著者が実験を行ったところ、トランプを「きっちり」順番通りに維持する方が余計に時間がかかったそうです。
選んで→使って→元に戻す、この一連の作業で見た場合「きっちり」より「だらしない」方が時間というコストがかからないんです。
もちろん「きっちり」整理されてる方が時間が節約できることもあると思いますが、少なくとも1つ言えることは
「だらしない」であることが非効率的や無意味である、とは言い切れないわけで
「きっちり」が圧倒的善でもなければ「だらしない」が圧倒的悪とは言い切れなく、そこは曖昧だったりします
でも、世間では圧倒的に「きっちり」が善で「だらしない」が悪という認識が強いですよね。(とくに日本ではね)
その認識は頭カタイっすわ、コッチコチすわ
事実、僕はよく本を読むので本が大量にありますが、本棚に「きっちり」本を並べていません。
あいうえお順とか、カテゴリー順とかめんどくさくてね
僕は読んだ本を戻すとき
ルール1,面白かった本をより左へ
ルール2,どうでも良い本はより右へ
という、単純な「だらしない」ルールで運用しています。
ジャンルや、あいうえお順なんてありません。
この並べ方なら有用な本は自然と左に集まるし、どうでも良い本は右に集まって、そのうちまとめてブックオフにもっていくだけです。
有用度という視点で管理してるよ。
この管理方法だとメチャメチャ楽です、読み終わった本を、面白ければ左、つまらなければ右に入れるだけですから。
本棚を管理するための時間的コストはゼロに等しいです。
こういうアイテムも買わなくて済むから金銭的コストもゼロです
それにもう1つのメリットは
カテゴリーがぐちゃぐちゃになって本棚の中に収納されることです
以前、多読の記事でも書きましたが
僕は仕事に困っているからと言って仕事の本ばかり読みません、歴史も哲学もビジネスも数学も宇宙も自己啓発もなんでも読みます。
一見無駄に見えるその行為も「抽象化された情報」を探すという意味で有用であり、それがまた一発解決してくれることがあるからです。
つまり、何かに行き詰った時ほどランダムに本を読みます。
カテゴリーがぐちゃぐちゃな本棚はランダム性をイイ感じに生んでくれます。
その「有用」かつランダムな本棚を見ることで気付きを得て、問題解決したことは数知れません。
カテゴリー分けされた本棚からはこの気づきは生まれにくいのです。
「だらしなさ」の中にも秩序がある
僕の本棚がそうであるように、その人にとって最適な状態というのがあります。
「だらしない状態こそ」がその人ってもっとも生産性が高い状態であることもあるわけで、それは他人が外から見ただけではわかりません。
その人、独自のルールで運用されてるものですしね。
なので「見た目が美しく無いから」という理由だけで「だらしない」を糾弾し「きっちり」を強要することは間違いとも言えます。
それはその人の価値観に土足で踏み込むのと同じ行為です。
僕たち夫婦は相手の「だらしなさ」に基本的に関与しません。(ちなみに妻のナツキは、冒頭のテストで「だらしな度50%」のほどほどにだらしない人)
相手の本棚がどんな状況だろうと
ナツキ独自のルールで運用されてるだろうなぁ
と思うだけで、ああしろこうしろとは言いません。
机の周りが(僕から見て)無秩序でも何も言いません。
ナツキも
旦那さんの本棚ってメチャメチャだよね
とは言うけど、ああしろこうしろとは言われたことがありません。
お互い、ほどほどに「だらしない」事を理解してるので、相手の領域の「だらしなさ」には一定の理解を示しつつ、無関心です。
だらしなさの中に秩序があることを知ってるからです。
なので、料理もしないのに
君だらしないね、キッチンの乱雑さ、どうにかならないの?
というのは了見が狭い。
奥さんにしか分からないルールで運用されてるので、傍から見て乱雑な状態が最適解だったりするわけです。
ハウルの動く城で、ソフィーが勝手にハウルの部屋を掃除したことで、ハウルが大激怒したシーンがありましたよね。
きっちりにはストレスがかかる
僕は旅行に行くのが好きですが、綿密なスケジュールを立てたことは一度もありません、どうせ立てたところで守らないってのもあるんですが。
綿密なスケジュールは僕に多大なストレスを与えるからです。
「きっちり」にとってスケジュールが守れないとストレスじゃないですか?
ああ・・・もうっ!!なんでうまくいかない!!
せっかく何時間もかけて建てたスケジュールが予定通りいかないとイライラする
それでは何の為の旅行なのか意味がわかりません。
「たまには旅行にいってのんびりしたいねぇ」・・・・って最初は言ってたはず
著者はこう言います
余裕のないスケジュールは崩れるのも早い
余裕が無い綿密なスケジュールだからこそ守るのが難しく、崩れるのが早く、そしてイライラする。
大雑把で「だらしない」スケジュールなら、そもそもが大雑把なんですから、守れなくとも気にすることはありません。
スケジュールは多少「だらしない」くらいの方が柔軟性があり、また別の面でのメリットもあります。
例えば事前にA、B、C、D、Eを見て回る綿密な旅行計画を立てたとすると、見て回れるのは当然A、B、C、D、Eだけとなります。
そこは「きっちり」さんのことですから、事前にあれこれと調べると思うので「新たな発見」というのは生まれにくくなります。
でも、AとBだけは絶対に見て回るとして、後はその時の気分で・・・とすれば(僕の旅行の立て方はこんな感じです)
A,Bの他にAダッシュやCダッシ、αやγやωなど
自分の知らない場所や景色、食べ物に出会う確率が高くなります。
思いもよらぬハプニングもあったりしますけど、それが後になった時に楽しかったりするものです。
それこそ旅じゃね?
これは旅だけでなく全てのことに当てはまります。
先日の反脆弱性の記事で似たような事を書きましたが
上の記事で「ランダム性を嫌うな、排除するな、ランダム性を糧とする「反脆弱性」を身に着けよ」と書きましたが。
世の中には「先が分からないことで満ちています」言い換えればランダムに満ち溢れています
旅と同じです。
柔軟性のない「きっちり」では何が起こるか分からない今の世の中を生きるのは辛く
あそびのある「だらしなさ」こそ、ランダムを吸収し、糧とし、時に笑いにするしなやかさがあると僕は信じて疑いません。
間違いや失敗を嫌って、事前に綿密な計画を立てるのではなく(計画は綿密なほど崩れるのが早い)
間違いをプラスに変えるしなやかさ、柔軟さ、だらしなさを持って「間違いを愛する」状況に身を置くべきではないでしょうか?
僕の人生計画も旅と同じで「絶対にやるべきこと」だけが決まってるだけです、あとは完全ノープランで何も考えていません。
絶対にやるべきことは手帳に書いて毎日持ち歩いています
それくらい「だらしない」人生設計でもなんとかなるし、楽しいものです。
僕の大大大大大好きなニーチェの言葉
死に至らぬ経験は私を強くする
「だらしない」は寛容である
僕は徹底して海外旅行志向です
海外旅行が大好き
海外に行くと「だらしない」が多いからです。
海外は「だらしない」が多いので、どこの国に行っても、まず、間違いなく不便な思いをします。
でもそれこそが心地いいんです。
日本が異常なくらい「きっちり」しすぎてて気が滅入るくらいです。
だからJALよりデルタ派
日本はスーパーに行っても
レジで、牛乳を横にしてもよろしいですか?
言わなくても、豚肉を透明のビニールに入れてくれるし。
お箸はお付けしますか?
ドライアイスは?
◯◯は大丈夫ですか?
金額さえ間違ってなければ文句は言わないよ・・・
といつも心の中で思ってるんですけど
結局、一番の「きっちり」に合わせるから、どんどんと完璧に、過剰に、ギスギスに、きっちきちに、潔癖に、やりすぎになるんだろうな・・・と思うわけです。
やるほうも、受ける方も、完璧なサービスが行き着く先は、消耗しか無いような気がしません?
やる方は、どんどん完璧なサービスをしなきゃいけなくなるし、神経をすり減らさないといけない。
受ける方は、どんどん「きっちり」を求めるよういなるし
疲れますわ・・・ほんと
だから、外国のちょっと不便くらいが実は心地良い。
だって、向こうが「だらしない」のだから、こっちも「だらしなくて」いいんって思えるから。
お互い「だらしない」からこそ許し合える寛容さが外国にはある
何事においても「きっちり」を求める日本とは真逆のベクトルです。
外国は「相手に多くを求めない」という雰囲気が根底に流れているような気がします。
それはみんなみんなが「だらしない」ことを認識してるからだと僕は思います。
それに対し、日本はたくさんの「きっちり」を求めるし、多くを期待する、期待に応えられなければギャーギャーとわめく「口コミで」騒ぎたてる
もちろん日本にも居心地のいい「だらしなさ」のある場所はあるけど・・・・年々減ってるような気がします。
昔はもっと多かったと思うんですけど、なんでこうなったのやら。
旅は寛容を教える
ベンジャミン・ディズレーリ
きっちりしてる風な人「長文失礼しました」というちぐはぐな言葉
僕は「きっちり」と「他人に配慮できる人」は違うと思っています。
必ずしも「きっちり」している人が「他人に配慮」出来る人とは限りません。
例えば、たまに長文のコメントなりメールなりもらいますが
誤解して欲しくないんですが、僕は長文のメールやコメントをもらうこと自体大好きです
文末に「長文失礼しました」と付記されてることが少なくありません。
こう書けば
きっちりした人なんですね
と思えますが、実際はそうじゃない場合もあります。
こういうメールをもらうことがたまにあります。
ああ・・・ハイ・・・そうですか・・・これは長文ではなく雑文ですね。(白目)
読む人のことを思って文末に「長文失礼しました」と付記するのであれば
なぜ、もっと読みやすい文章を心掛けないのか不思議でなりません。
長文を謝るくらいなら、読みやすさをもっと工夫してみては?
このような例は枚挙に暇がないわけで・・・「きっちり」が自分の内側だけに向いてる人っていたりします。
イメージだとこんな感じ(適当)
「きっちり」が自分の内側だけに向いてる人が
私はだらしないあなたとは違って、きっちりしてますから!!
って言ってるとしてら、それはマジでたち悪いなぁ・・・って思います。
その人は自己満足レベルの「きっちり」しか出来ない上に、何かにつけて「だらしない」を攻撃するわけですしね。
生きづらそうだねぇ・・・・ほんと
そういう人は自然と人が逃げていきます。
自分は「きっちり」してるはずなのに、なぜか不思議なくらい人が避けていく・・・・
なのに、なぜか不思議なくらい「だらしない」あの人が人気者だったりします。
そういう人はきっと誤解しています。
「だらしない」からと言って他者への配慮が出来ないわけではありません。
他人に迷惑かからない範囲で「だらしない」だけで
先ほども書いた通り「だらしない」からこそ他者に寛容で優しく出来る素養があると言えます。(もちろん他人に迷惑なくらい「だらしない」人もいます)
他人を配慮できる「きっちり」と
自己満足レベルの「きっちり」があること
そしてあなたの「きっちり」は自己満足レベルでしかないことをどこかで気づかないと、ひとりぼっちになりかねませんよ・・・ホント。
まとめ
「きっちり」は「だらしない」より余分にストレスがかかります
・他人のだらしなさが許せないし
・自分のだらしなさが許せないし
・予定通りに「きっちり」行かないとイライラするからです
とはいえ、これまで「きっちり」してきたことを変えるのは難しいかもしれませんし
「きっちり」が全部悪いとも思いません、それはその人の明確な長所です。
僕にだって「きっちり」しているところはあります
でも他人の見方を変えるのは案外簡単だったりするので
「だらしない」を見かけた時
・そこにはその人にしか分からないルールがあること
・「だらしない」は寛容であること
を思い出すと、少しだけその人の見方が変わるかもしれません。
また「きっちり」とは
全ての人が1つの答えに収まらなければいけない(それが常識でしょみたいな)
という雰囲気があります。
みんな同じ方向向いて歩こうぜ!!という雰囲気
でもそれはどだい不可能であることは、養老孟司先生のバカの壁を読めば明白なことです
養老先生はお互い話が通じないのは「バカの壁」が立ちはだかってるから、と解説します。
僕もその意見に賛成です。
「きっちり」と「だらしない」は分かり合えないんです。
向いてる方向が違うし、求めるものが違うからです。
でも、分かり合えることは出来なくとも、相手の価値観を認めることは出来ます。
それこそが「寛容な生き方」なのではないかと、僕は思うわけです。
目の前に現れる人、一人ひとりが、許容度・寛容度を広げて下さる人
小林正観
人にやさしくされた時、自分の小ささを知りました
MONGOL800/あなたに
。
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